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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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ヤコボ朝長

                                 1582-1633年


トマス西と15殉教者の一人


長崎の大村領生まれの日本人司祭。=ハコボ・デ・サンタ・マリア・キュシエイ朝長五郎兵衛,Iacobus Kyushei Gorobioye Tomonaga

キリシタンの両親の元で育てられ、セミナリオを卒業した後は同宿(伝道士)として働き、1614年に宣教師が国外追放される際にマニラに渡り、ドミニコ会に入会。1626年、司祭に叙階されました。その後迫害の嵐吹く日本に戻り、主の働きをしていましたが、捕らえられ、西坂で穴吊しの刑を受けて殉教しました。


長崎の大村で

カトリック松山教会

16殉教者

(カトリック松山教会)

ヤコボ朝長(ともなが)は、1582年長崎の大村で、身分の高い郷士の家に生まれました。両親も信仰深いキリシタンで、ヤコボは次第に司祭への道を志すようになりました。セミナリオを卒業後は、同宿として働いていましたが、司祭叙階の夢を捨てられず、1614年折りしも宣教師が国外退去させられる時に一緒にマニラに渡り、そこでドミニコ会の修道院に入りました。

そして1626年、ようやく司祭叙階の恵みを受けることができ、エスキベール神父と共に日葡辞書のスペイン語版を作るなどの働きをしました。

日本への帰国

ヤコボ朝長らの絵(部分)


日本人信徒を支え、一人でも多くの命を救いたいとの思いで、1632年ヤコボ朝長は日本への帰国を決意。台風に遭遇するなど5ヶ月の困難な航海を経て日本に辿り着き、年末に薩摩に上陸。既に50歳になっていましたが、1633年4月、長崎でドミンゴ・エルキシア神父に会ってマニラからの紹介状を渡し、司牧に取り組み始めました。

しかしその3ヵ月後の7月4日、一緒に行動していたミゲル九郎兵衛が逮捕され、彼の白状によってヤコボも捕らえられ、叙階記念日である8月15日に長崎の町を引き回され、西坂で穴吊しの刑を受けて、50時間もの長い苦しみの末、8月17日に殉教しました。




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