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ヨルダノ・アンサロネ

                                 1598-1634年


トマス西と15殉教者の一人として列聖


シチリア島生まれの宣教師。=ホルダン・デ・サン・エステバン,ジャチント・アンサローネ,Iordanus de S.Stephano,cui nomen famliae Hyacinthus Ansalone

ヨルダノ・アンサロネは1598年、イタリアのシチリア島で生まれ、成長してドミニコ会に入会し、そこで日本の禁教と殉教のことを知り、日本に行くことを考えるようになりました。司祭になるとヨルダノ神父はマニラに行き、6年間奉仕の生活をしながら、日本入国の機会を待ちました。

1632年、ヨルダノ神父はようやく長崎に到着しましたが、彼らを乗せた中国船の密告で、すぐに指名手配され、潜伏生活を余儀なくされました。しかし厳しい役人の目をかいくぐって活動し、「大村の修道女マリナの伝記」や「神の審判」という本を著しました。1634年、重病にかかり、看病に来ていたトマス西神父と共に逮捕され、厳しい拷問を受けて、同年11月17日に西坂で殉教しました。


シチリアの名家に生まれて


16殉教者

(カトリック松山教会)
ヨルダノ・アンサロネは1598年、シチリア島の最も古い貴族の家柄に誕生しました。ドミニコ会に入会し、神学生として学んでいる時に、日本での禁教と教会が信徒が苦しめられていることを聞き及び、日本で宣教し、そのために生命を捧げようという決心が生まれました。

1622年に、司祭に叙階されるとすぐにマニラに赴き、まずはマニラの病院と教会で病人や中国人のために6年間奉仕の生活をしました。

そして1632年に来日。先に日本入りしていたドミンゴ・エルキシア神父の隠れ家に潜んで日本語を勉強し、迫害下の教会の司牧に取り掛かりました。エルキシア神父が捕らえられ時にヨルダノ神父も捕らえかけられましたが、間一髪で難を逃れ、長崎と大村領内で山中などに潜伏しながら信徒を励まし宣教活動を続けました。

ヨルダノ神父の働き

ヨルダノ神父の筆跡


そんな厳しい生活の中でもヨルダノ神父は三つの著作を著しました。「大村の修道女マリナの伝記」と「神の審判」、「殉教記録」と呼ばれるものです。前2冊は没収されて現存しませんが、「殉教記録」はマニラに保存されています。大村のマリナのことを記していることから、恐らくヨルダノ神父はこの修道女の家に匿われたことがあったのだろうと考えられています。

ヨルダノ神父は1634年、大村にいる時に死ぬかと思うほどの重病にかかり、長崎に帰り、トマス西神父が看病のために訪ねて来ました。ところが病は奇跡的に治り、安心した西神父は帰ろうとしたのですが、近づく8月4日が聖ドミニコの祝日だったため、信者と一緒に祝おうと西神父を留めました。

そこで西神父はヨルダノ神父の許に留まったのですが、その8月4日の祝日に2人は水ノ浦で役人に捕らえられました。

2人の神父の最期

穴吊り


2人の神父は牢に入れられ、劣悪な環境で3ヵ月半を過ごしました。役人が火焙りか油で揚げるぞと脅しましたが、2人は驚かなかったので繰り返し水責めの拷問を受けました。ヨルダノ神父は手桶の水70杯も飲まされ、西神父はそれに少し足りないくらい飲まされて、重石を腹に落とされると、口や鼻、眼や耳から血と水が噴き出して半死半生の状態になりました。

また指と爪の間に、焼き固めた竹串を押し込みましたが、2人がこれに耐えるので、役人は今度はささくれ立った竹を持ってきて、衆人環視の中、2人の性器に押し込んで苦しめました。2人は血塗れになって牢に担ぎ込まれましたが信仰を奪われることはありませんでした。

そのため1634年11月17日、ヨルダノ神父と西神父は牢から出され、市中を引き回されて西坂に向い、そこで穴吊りの刑に処されて殉教しました。穴吊りの苦しみにヨルダノ神父は7日間耐え、西神父はその少し前まで耐えて絶命し、殉教者の列に加えられました。





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