本文へスキップ

キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

トップページ > 私家版いじん伝 > トマス西と15殉教者 > ビセンテ塩塚

ビセンテ塩塚

                                 不明-1637年


トマス西と15殉教者の一人


長崎生まれの日本人司祭。=クルスのビセンテ塩塚,Vicentius Schiwozuka a Cruce

ビセンテ塩塚(しおづか)は長崎で生まれ、9歳頃からイエズス会のセミナリオで学び、芸術的才能に恵まれていたので、教会のオルガニストとして活躍しました。また絵を描いたり、聖歌隊の指揮者をして神と人のために仕えました。その後追放先のマニラで司祭になって日本に戻り、苦しい拷問の末に殉教しました。


長崎で生まれ才能を開花

16殉教者

(カトリック松山教会)

ビセンテ塩塚は長崎生まれのキリシタンで、イエズス会のセミナリオで学び、様々な芸術的才能を開花させました。1588年のセミナリヨの生徒名簿には「50番、ルイス塩塚、長崎出身、11歳、健康良好、1578年に入学、予備級で学んでいる」と書かれています。

セミナリオ卒業後は同宿として宣教活動をしていましたが、1614年にマカオに国外追放され、フランシスコ会の第三会員となって日本宣教に向かう司祭たちに、日本語を教えました。

そして念願の司祭叙階を受け、1622年にルイス・カブレラ・イ・ソテロ神父らと日本に向おうとしましたが、マニラ政府の反対により、ソテロ神父たちだけが密航して日本に行き、ビセンテ塩塚(この時はルイス塩塚)らは取り残されました。

そこで今度は聖トマス学院学長アントニオ・ゴンザレス神父とフランス生まれのギョーム・クルテ神父、スペイン人のアオザラザ神父からなる日本宣教師団に加わり、1636年6月、殉教を覚悟の上で日本に向かいました。彼の役割は通訳兼案内者で、出発前に先立ってドミニコ会に入会し、この時名前もビセンテ・デ・ラ・クルスに変えました。

日本での苦闘


1636年、琉球の吐喝喇列島の一つ悪石島に着きましたが、すぐに発見され、長崎に連行されました。そこで水責めの拷問を受け、殉教覚悟で入国したにも関わらず、耐えられずに棄教してしまいました。棄教したものの釈放されず、潜伏している宣教師のことなどを白状させようと水責めを受け、更に2人の外国人神父、クルテ神父とアオザラザ神父にした金針を指と爪の間に押し込む拷問を、塩塚神父も受けました。

穴吊り


夜になると3人は獄に戻され板越しに話ができたのですが、その時2人の外国人神父は塩塚神父を力づけ、祈ってくれました。その祈りと神の恵みに助けられて、塩塚神父は落ち着きを取り戻し、悔い改めました。1637年9月21日、ゴンザレス神父と2人の信徒、京都のラザロとルイス・ロレンソも長崎奉行所に到着し、彼らも何回も水責めにされて、9月23日にゴンザレス神父は牢内で死去。ラザロは一旦転ぶと言いましたが取り消しました。

9月27日、この日残る5人にとって地上で最後の戦いが始まりました。西坂に連行されると、5人は挨拶を交わし、次々と穴吊りにかけられていきました。そして3日間そのままにされ、9月29日に引き上げてみたところ、ラザロとロレンソは既に死んでいましたが、3人の神父は耐え忍んで生きていました。

この日狩りに行こうとしていた長崎奉行は、3人の死が待ちきれず、斬首にするよう命じました。3人の神父は穴から引き出され、その場で首を斬られ殉教。遺体は焼かれて海に撒かれました。





インフォメーション
《本サイト内の関連ページ》



                                         NEXT >>