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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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ジョアン・バプティスタ・マチャード・デ・タボラ

                                 1580-1617年


1867年に列福された205名の殉教者の一人


イエズス会宣教師。=フアン・バウティスタ・デ・マシャド,P.João Baptista Machado

ジョアン・バプティスタ・マチャード・デ・タボラ神父は、1609年に長崎に到着し、都の周辺で働いてから、禁教令以後は長崎に行き、潜伏して司牧活動を行いました。五島列島の島で捕らえられ、大村に連行されて殉教しました。


禁教下で活動


ジョアン・バプティスタ・マチャード・デ・タボラ神父は、1581年ごろアソーレス諸島で生まれ、1597年、コインブラでイエズス会に入会しました。1601年にゴアに赴き、マカオで神学を学び、司祭叙階されて日本に向いました。

1609年、長崎に到着し、都の周辺で5年働いていましたが、1614年、折りしも全国にの禁教令が出されたことから長崎に退いて、隠れて宣教活動を続けました。役人に目を付けられていることは分かっていましたが、1617年、五島列島の一つでハンセン病患者のキリシタンが集中している島を訪れ、信徒を慰めていたところ、同年4月22日、役人に捕らえられ、大村に送られました。

大村ではフランシスコ会の神父ペドロ・デ・ラ・アスンシオンと一緒に奉行 リノ朝長次郎兵衛の許に預けられましたが、この朝長は元キリシタンで棄教した者でした。朝長が宣教師たちを親切に扱ったので、ミサを自由に立てることもできましたが、やがて斬首せよとの命令が幕府から届き、同年5月22日に殉教しました。

処刑される前に、マチャード神父は朝長の改心を祈りましたが、その祈りが実り、半年後、朝長はキリシタンに立ち返って信仰を告白。そのため朝長自身も殉教の死を遂げました。





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