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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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アウグスチノ太田

                                 1575-1622年


1867年に列福された205名の殉教者の一人


イエズス会の日本人修道士=アウグスチン太田,P.太田Agostinho

アウグスチノ太田は、1575年長崎の平戸藩に属する小値賀島に生まれました。幼い頃僧侶の下で学んだため仏教の知識が豊富で、1585年に受洗してからの宣教活動で、その知識が大いに役立ちました。1621年、平戸でカミロ・コンスタンツォ神父と働くようになりましたが、わずか数ヶ月後の1622年4月24日、2人は捕縛され、同年年8月10日、平戸で斬首され殉教しました。


小値賀島に生まれたキリシタン修道士


アウグスチノ太田は、1575年長崎の平戸藩の小値賀島に生まれ、寺で育てられました。両親と共に下五島に移ってから一家はキリシタンになり、15歳からアウグスチノは教会で看房となって働き始めました。司祭がいない時には村々に出掛けて行って、幼児に洗礼を授け、病人を見舞い、死者が出ると手厚く葬ることもしていました。

禁教令が出され、その教会が破壊されると、アウグスチノは妻子と共に長崎へ行きましたが、そこで妻は死に、アウグスチノは全力で教会に尽くすようになりました。それを見ていたイエズス会士たちは、迫害で苦しんでいる平戸の信徒たちの元へアウグスチノを遣わしました。

平戸

そして1621年から平戸でカミロ・コンスタンツォ神父と働くようになりましたが、約4ヵ月後に捕らえられ、獄に入れられました。死が間近いことを悟ったアウグスチノは、イエズス会への入会の許可を求める手紙をコンスタンツォ神父を通して日本菅区長に書き、返事が殉教の数日前に着いたので、コンスタンツォ神父は管区長から委任された権限をもって、アウグスチノを修練者として受け入れ、1622年8月9日、獄中でアウグスチノは初誓願を立てました。

その翌日の8月10日、アウグスチノは斬首刑に処せられ殉教。遺体は海に投棄されました。





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