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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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アロンソ・デ・メーナ

                                 1578-1622年


1867年に列福された205名の殉教者の一人


ドミニコ会のスペイン人司祭=アロンソ・デ・メナ,P.Alronso De Mena
1622年9月10日、西坂で火刑に処されて殉教しました。


アロンソ・デ・ナヴァレテの従兄弟


アロンソ・デ・メーナは、同じく福者に上げられたアルフォンソ・デ・ナヴァレテ神父の従兄弟で、1578年スペインのログローニョに生まれました。年若くしてドミニコ会のサン・エステバン修道院に入会。1597年フィリピンに向かって船出をし、マニラで司祭になりました。

1602年日本に派遣され、メーナはドミニコ会宣教団の代表として徳川家康に挨拶するために出かけ、日本滞在の許可を得ました。この訪問が成功したのを見た薩摩の領主がドミニコ会に自領内で貿易をするよう要請したので、その交渉役としてメーナ神父はマニラに向かうことになりました。

京泊教会跡

その交渉はうまくいきませんでしたが、薩摩領主はドミニコ会に好意を示し、京泊に修道院と教会を建てることを許可。ドミニコ会の活動が展開されるようになりました。1606年にはメーナ神父は肥前(現・佐賀県)で新しい宣教の場を持つこととなり、スペイン船の船長をその地の代官に紹介。次いで肥前の藩主にも儀礼的な訪問をして、領内で福音を説く許可を得ました。

そのためドミニコ会では浜町、肥前鹿島、佐賀にも教会を建て、メーナ神父が中心となって開拓しました。しかし1613年、禁教令により宣教師は肥前を発ち長崎に向かうこととなり、メーナ神父は長崎代官村山等安の次男、ファン忠安の家にしばらく住みました。

メーナ神父は九州を巡回して活動していましたが、1619年密告により長崎の紺屋町にあるファン正左衛門素雲というキリシタンの家で逮捕され、奉行所に連行されました。翌日フランシスコ・モラレス神父も捕らえられ、二人は壱岐の牢に送られました。

数か月後、鈴田牢に移され、重い病気にかかりましたが手紙と報告書を書き、盲目になりました。1622年9月10日、長崎の西坂でとろ火で焼かれ殉教しました。





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