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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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カルロ・スピノラ

                                 1564-1622年


1867年に列福された205名の殉教者の一人


スペイン生まれのイエズス会宣教師。=カルロス・スピノラ,P.Carlos Spinola

カルロ・スピノラは1564年、マドリッドで生まれ、1584年にイエズス会に入会しました。マラッカやマカオを経て、1602年日本に上陸し、島原で日本語を学んでから京都に上り、そこで数学や天文学を教えました。

禁教令の後も日本に残り、潜伏して活動しましたが、1618年に捕らえられ、鳥籠のような鈴田牢に入れられました。1622年9月、鈴田牢から引き出され、西坂で火刑にかけられ殉教しました。この時55人が処刑されたのですが、これを元和の大殉教といいます。


日本に来るまで


カルロ・スピノラは1564年、マドリッドで生まれ、1572年からはイタリアのノーラに移ってイエズス会の学校で学びました。その時インドで殉教したロドルフォ・アクアヴィヴァの話に感動し、1584年12月23日、イエズス会に入会しました。その後ナポリやミラノで学び、1594年、ミラノで司祭に叙階され、1596年にデ・アンジェリス神父と共に日本に向けてリスボンを出港しました。

ところがアフリカ最南端の喜望峰で嵐に遭い、ブラジルに流され、サンサルバドル島で船の修理のために何ヶ月も手間取り、出帆すると海賊に捕らえられてイギリスに連行されるという事件に見舞われました。リスボンに戻り、1599年3月、改めて出帆し、マラッカやマカオを経て、1602年7月、ようやく日本に上陸しました。

元和の大殉教


鈴田牢

スピノラ神父は有馬で日本語を勉強してから有江の教会をしばらく担当し、それから都に移って数学や天文学を神学生たちに教え、1611年に管区の財務責任者に任命されて、長崎に戻りました。1614年に禁教令が出されても日本に残り、隠れて司牧にあたりましたが、1618年12月13日、アンブロシオ・フェルナンデス修道士と同宿のジョアン中国と一緒に捕らえられて、大村の鈴田牢に押し込まれました。

鳥籠のような狭い牢で劣悪な環境ではありましたが、外にいる信徒が牢番人に賄賂を渡して、牢内にミサ用具が持ち込まれたので、まるで修道院の中のような信仰的な生活が営まれました。鈴田牢にはフェルナンデス修道士の死去後、アントニオ・きうにゴンサロ・ふさいペドロ・三甫ミゲル・春甫の4人が新たに投獄され、その後もセバスチャン木村神父、トメ赤星ルイス河原が入れられ、木村神父以外の者たちは修練者として獄中生活をするようになりました。

西坂の丘



1622年9月、全員が長崎の刑場に連行される前に、スピノラ神父はこの7名の修練者の誓願を受け、7名はイエズス会士となりました。そして鈴田牢から引き出された25人は、長崎市内からの30人と合流し、西坂に向い、刑場で修道者は全員火焙り、他の者たちは斬首刑を受けることとなりましたが、ジョアン中国だけが、火あぶりの柱が一つ足らなかったため斬首刑となりました。

1622年9月10日、西坂で行われたこのキリシタンの大量処刑を、元和の大殉教といいます。





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