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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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アントニオ・ピント石田

                                 1570-1632年


1867年に列福された205名の殉教者の一人


島原出身のイエズス会司祭。=アントニオ石田,P.石田Antonio

芸備地方で信徒を勇気づけ、雲仙地獄責めにも屈せず、1632年西坂で火焙りで殉教しました。


島原に生まれ


アントニオ石田は、1570年、肥前国島原に生まれました。島原への布教は1563年に開始され、最初の数カ月で「上流で富裕な700人以上」の信者を得たと報告されています。領主の有馬義貞が1576年に洗礼を受けるとさらに加速し、島原半島だけで10万以上の信者を数え、1村全部がキリシタンという所も出現していました。

島原半島でのキリスト教の隆盛は、秀吉の禁教令が出てからも続き、そのような時期にアントニオ石田は洗礼を受けたと考えられています。洗礼を受けた時の洗礼名は、「アマドル」。のちに名前を「アントニオ」に変えました。

青年期のアントニオ石田

アントニオ石田


青年期のアントニオ石田(この頃はまだアマドルですが、混乱を避けるため表記はアントニオに統一します)は、加津佐のセミナリヨで日本語・日本文学、ラテン語とポルトガル語基礎、修辞学、倫理学、宗教学を学びました。

1589年天草のノビシアード(修業と祈りを務める修練院)に進み、その課程を終えたアントニオ石田は、選ばれてコレジヨに入学しました。コレジヨは司祭を養成するための大学のようなもので、天正遣欧少年使節としてローマを訪れて帰国したばかりのマンショ伊東もそこにいました。

この頃の日本は、1592年から始まった朝鮮侵略、1598年の秀吉の死、1600年の徳川家康の制覇と時代が大きく変動していました。この間にアントニオ石田は名前を「アントニオ」と変え、山口にあった教会の修道士に任命されるようになりました。

中国地方で活動


1603年、アントニオ石田はマンショ伊東、ジュリアン中浦らと共にマカオへ渡り、コレジヨでの上級課程へ進学しました。そして数年で帰国したアントニオ石田は再び中国地方で布教活動に従事しました。活動の拠点を芸備地方(現在の広島県と岡山県)にしたのには理由があります。関が原の合戦後に広島から萩に押し込められた毛利輝元とその広島へ転封されてきた福島正則がキリシタンに好意的であったからです。

また徳川家康が幕府を開いたとはいえ、大坂には豊臣秀頼がおり、徳川氏の支配はまだ完全なものではありませんでした。そのためこの地方ではまだキリシタンへの締め付けがきつくなく、アントニオ石田らの活動により、1年に数百人あるいは千人を越える新たな信者を獲得できました。

1614年2月(慶長18年12月)、徳川幕府は幕府領に限定していた切支丹禁教令を全国に向けて発布しました。神父や修道士たちは長崎に集められ、5隻の船で追放されましたが、翌年の秋にはアントニオ石田は広島へ戻り、密かに布教活動を続けました。

捕縛


しかし1617年春、アントニオ石田は広島で逮捕されました。その後2年間は、非常に苦しい獄舎生活を強いられました。最初の数カ月は首に鉄の輪をはめられ、野獣のように鎖につながれたと言われています。獄中でも信仰を堅く守り、祈る神父の姿に感銘を受け、受洗した信徒がいます。

マチアス庄原市左衛門は、アントニオ石田が捕らえられていた佃式部の牢の役人でしたが、神父と関わるうちに信仰を持つようになりました。キリスト教の教理をアントニオ石田から習い、受洗。獄中の神父のためにひそかに尽力しました。マチアス庄原市左衛門は1624年に殉教し、2008年に列福されています。

ところが1619年夏、アントニオ石田は突然釈放されました。これは布教が公認されたのではなく、広島城主・福島正則が処罰され、転封されたための機械的な処置でした。束の間の自由の後、1629年、アントニオ石田は長崎の隠れ家で捕縛されました。

雲仙地獄

雲仙地獄


1631年の暮れ、アントニオ石田はバルトロメオ・グチェレス神父、フランシスコ・デ・イエズス神父、ヴィンセンシオ・カルタリオ神父、ガブリエル修道士、ベアトリスという貴婦人とその娘マリアとともに雲仙に送られました。

「信仰を捨てたら許してやる」と言いながらの拷問は33日間に及びました。小さな穴をあけた柄杓に熱湯を入れ、少しずつ体中至るところに垂らす雲仙地獄責めは、キリシタンが受けた拷問の中でも最も残酷なものだと言われています。マリアは1回で気を失いましたが、アントニオ石田は6回も受けました。

しかし誰一人棄教する者はおらず、拷問の指揮を執った竹中重次は、どんな苦痛でもキリシタンの信仰を屈服することができないことを認めざるをえませんでした。そして1627年から5年間も続いてきた雲仙地獄責めはこの年をもって中止されるようになりました。

西坂の丘


西坂の丘

1632年9月3日、ついに幕府は棄教させることを断念し、アントニオ石田を含む6名の聖職者・信者を火刑に処しました。処刑地は長崎の西坂でした。彼らは炎に包まれながらも、「キリストへの信仰、万歳!」と叫んだと報告されています。

アントニオ石田を含む205名の殉教者は、1867年7月7日に福者に列せられました。雲仙に建てられたカトリック雲仙教会は、雲仙地獄での苦しみに屈せず、信仰の証を立てたアントニオ石田に捧げられています。





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