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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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マルチノ・デ・ラ・アセンシオン

                                 1567-1597年

日本26聖人の一人


スペイン生まれのフランシスコ会司祭。=P.Martín De La Ascensión De Aguirre

1596年に長崎に上陸し、数日後京都に上りました。その後大坂行きを命じられ、日本語を学びながら働いていたところを捕らえられました。殉教した時30歳で、来日してまだ1年も経っていませんでした。


アルカラ大学出の神学者

マルチノ・デ・ラ・アセンシオン


マルチノ・デ・ラ・アセンシオンは、アルカラ大学で学び、メキシコで一年間神学生たちに哲学を教え、マニラでも同様に教授を務めた人物で、フロイスはマルチノのことを「神学者」と書いています。

マルチノは日本に着いたばかりで、まだ日本語も日本の状況も分からない中で、イエズス会を批判する長い手紙をスペイン国王フェリペ2世に出し、後にその内容に誤りがあることを認め、焼き捨ててくれるよう頼みました。

しかし既に手紙はヴァリニャーノ神父の元に渡っていたため、ヴァリニャーノ神父は「アポロジア(弁明論)」を書いて弁明しています。

秀吉の命で


1596年10月に起ったサン・フェリペ号事件をきっかけに、豊臣秀吉はキリスト教禁令を再度布告し、京都奉行の石田三成に命じて、京都周辺に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して磔の刑に処するよう命じました。

その結果、大坂と京都でフランシスコ会員7名と信徒14名、イエズス会関係者3名の合計24名が捕縛され、小川町牢に入れられました。24名は京都の一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされ、市中引き回しとなった上、見せしめのために長崎まで引き立てられ、そこで処刑されることとされました。

長崎・西坂の丘

西坂の丘


道中でペトロ助四郎伊勢のフランシスコも捕縛され、26名となった一行は、長崎の西坂にあった処刑場へと連行され、1597年2月5日(慶長元年12月19日)、槍につかれて処刑されました。これは国の最高権力者の命令で行われた日本で初めてのキリシタン処刑でした。

処刑場でマルチノは十字架に張り付けられながらも、「主をほめたたえよ」と詩編を力強く歌っていたといいます。

列福と列聖


1627年、教皇ウルバノ8世はこの26名を福者とすることとし、1862年には教皇ピオ9世がこの殉教者たちを聖人に列しました。現在長崎の西坂殉教地には二十六聖人記念碑と二十六聖人記念館が建てられ、隣に聖フィリポ教会が建てられています。





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