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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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アントニオ

                                 1584-1597年

日本26聖人の一人


父が中国人、母が日本人のキリシタンの少年。
長崎生まれのキリシタンで、父は中国人、母は日本人でした。初めはイエズス会で学び、後に京都のフランシスコ会で他の少年たちと共に教育を受けました。殉教したときはわずか13歳でした。


父は長崎に住む中国人

アントニオ


アントニオは1584年に、長崎の樺島町で生まれたと考えられています。父は長崎に住み着いた貧しい中国人で、大工をしており、日本人の女性と結婚してアントニオをもうけました。

成長して岬の教会で洗礼を受け、他の子供たちと一緒に教理を学び、その後同宿としての道を歩むこととなりました。1596年、来日したフランシスコ会士たちと京都へ上がり、そこから大坂の教会へと手伝いに送られました。

秀吉の命で


1596年10月に起ったサン・フェリペ号事件をきっかけに、豊臣秀吉はキリスト教禁令を再度布告し、京都奉行の石田三成に命じて、京都周辺に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して磔の刑に処するよう命じました。

その結果、大坂と京都でフランシスコ会員7名と信徒14名、イエズス会関係者3名の合計24名が捕縛され、小川町牢に入れられました。24名は京都の一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされ、市中引き回しとなった上、見せしめのために長崎まで引き立てられ、そこで処刑されることとされました。

長崎・西坂の丘

西坂の丘


道中でペトロ助四郎伊勢のフランシスコも捕縛され、26名となった一行は、長崎の西坂にあった処刑場へと連行され、1597年2月5日(慶長元年12月19日)、槍につかれて処刑されました。これは国の最高権力者の命令で行われた日本で初めてのキリシタン処刑でした。

アントニオの路程


アントニオは1597年1月1日に京都の牢に送られ、そこから長崎へと向いました。長崎の西坂では両親に再会。両親が涙を流して迎えたので、アントニオは泣かないようにと言い、自分は間もなく天国へ行くのだからと慰めました。アントニオは十字架に架けられると、右側にいたペドロ・バプチスタ神父に「神父様、何を歌いましょうか」と尋ねましたが、神父が祈りに集中していて聞こえていなかったので、ルドビコと一緒に「子供たちよ、神をほめたたえよ」を歌いました。殉教したときは13歳でした。

列福と列聖


1627年、教皇ウルバノ8世はこの26名を福者とすることとし、1862年には教皇ピオ9世がこの殉教者たちを聖人に列しました。現在長崎の西坂殉教地には二十六聖人記念碑と二十六聖人記念館が建てられ、隣に聖フィリポ教会が建てられています。





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