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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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ペドロ・バプチスタ

                                 1544頃-1597年

日本26聖人の一人


スペイン人のフランシスコ会司祭。=P.Pedro Bautista Blazquez

1593年に来日し、フィリピン総督の使節として秀吉に謁見しました。その際に教会建設の許可を得たので、布教の許可を得たものと考えて、京都に教会や病院を建てて活動を展開しました。秀吉の性格を知るイエズス会士から、慎重にするようたしなめられても聞く耳を持たず、迫害を招きました。


スペインで生まれて

ペドロ・バプチスタ


ペドロ・バプチスタは1544年頃スペインのアビラ県サン・エステバン・デル・バリエ村に生まれました。父はペドロ・ブラスケスといい、村の鍛冶屋で、母マリアはペドロの他に3人の娘と1人の息子を産みました。

ペドロは隣村の小学校とイエズス会の学校で勉強した後、サラマンカ大学に入りました。そして1568年に故郷に戻ってフランシスコ会に入会しました。

司祭になって日本へ


司祭になって間もなくペドロは海外宣教を志願し、1581年にセビリヤ港を出帆。メキシコで3年間活動した後、マニラに遣わされました。折りしも豊臣秀吉がフィリピン総督に対して臣従の意志を示せという要求をしてきたので、総督はペドロに使節として日本へ行くよう依頼。ペドロは来日して秀吉に謁見し、貿易の契約を取り付けました。

使節としての任務を遂げたペドロは日本で宣教と人々の救済活動に励みました。ペドロに日本滞在を許し、秀吉から住居用の土地までもらったので、ペドロは布教の許可と保護の約束を得たものだと思い、京都に教会と修道院、小さな病院を建てました。イエズス会士は禁教令を無視して公然と活動することは危険だと忠告しましたが、「心配いらない」と答えました。

秀吉の命で


1596年10月に起ったサン・フェリペ号事件をきっかけに、秀吉はキリスト教禁令を再度布告し、京都奉行の石田三成に命じて、京都周辺に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して磔の刑に処するよう命じました。

その結果、大坂と京都でフランシスコ会員7名と信徒14名、イエズス会関係者3名の合計24名が捕縛され、小川町牢に入れられました。24名は京都の一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされ、市中引き回しとなった上、見せしめのために長崎まで引き立てられ、そこで処刑されることとされました。

長崎・西坂の丘

西坂の丘


道中でペトロ助四郎伊勢のフランシスコも捕縛され、26名となった一行は、長崎の西坂にあった処刑場へと連行され、1597年2月5日(慶長元年12月19日)、槍につかれて処刑されました。これは国の最高権力者の命令で行われた日本で初めてのキリシタン処刑でした。

列福と列聖


1627年、教皇ウルバノ8世はこの26名を福者とすることとし、1862年には教皇ピオ9世がこの殉教者たちを聖人に列しました。現在長崎の西坂殉教地には二十六聖人記念碑と二十六聖人記念館が建てられ、隣に聖フィリポ教会が建てられています。

ペドロ・バプチスタの十字架


ペドロ・バプチスタの故郷の村には、広場の片隅に今もペドロの生家が残されており、その半分が小聖堂になっています。ペドロは長崎に向って京都を発つ際に、見送りに来たコスメ庄林に、胸にかけていた十字架を贈りました。このペドロの血がついた形見の十字架は、コスメからフランシスコ会のファン・ポブレ修道士に手渡され、ファンがサン・エステバンまで持って行ったので、生家の小聖堂の祭壇に飾られ、今も見ることができるということです。




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