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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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ゴンサロ・ガルシア

                                 1557-1597年

日本26聖人の一人


インド生まれのポルトガル人で、フランシスコ会の修道士。=Ir.Gonzales García

1572年に来日し、平戸で働き日本語を学びましたが、一旦海外に出て、その後ペドロ・バプチスタと共に再来日して京都の教会で働いていました。バプチスタが秀吉に謁見した際に通訳を務めた人物で、処刑される時に、役人に悔悛と改宗をすすめたと言われています。


ゴア生まれのポルトガル人修道士

ゴンサロ・ガルシア


ゴンサロ・ガルシアは、インドのゴアでポルトガル人の父とインド人の母との間に生まれましたが、父が母子を置いて姿を消したので、母親はゴンサロをイエズス会の孤児院に預けました。

青年になり、1572年に伝道師になるため日本へ渡り、平戸へと遣わされました。ゴンサロは熱心に働きながら日本語を勉強し、イエズス会への入会を何回も申請しましたが通りませんでした。当時未婚の母の子供は修道会や司祭職に受け入れられてなかったためにそうなったと考えられています。

フランシスコ会へ


1582年、平戸に寄港したスペイン船に乗っていたフランシスコ会神父に出会い、ゴンサロはフランシスコ会への希望を見出し、拠点のあったマニラへと向いました。そして1588年にフランシスコ会に入会。

当時日本での宣教を計画していたフランシスコ会にとっては、日本語ができるゴンサロはうってつけの人材でした。1593年、ペドロ・バプチスタがマニラ総督の使節として任命されると、ゴンサロは一緒に日本に渡り、名護屋での秀吉との謁見で通訳を務めました。

秀吉の命で


1596年10月に起ったサン・フェリペ号事件をきっかけに、豊臣秀吉はキリスト教禁令を再度布告し、京都奉行の石田三成に命じて、京都周辺に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して磔の刑に処するよう命じました。

その結果、大坂と京都でフランシスコ会員7名と信徒14名、イエズス会関係者3名の合計24名が捕縛され、小川町牢に入れられました。24名は京都の一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされ、市中引き回しとなった上、見せしめのために長崎まで引き立てられ、そこで処刑されることとされました。

ゴンサロの道


フランシスコ会の修道院へ役人が踏み込み、人々が捕らえられた時、ゴンサロは皆と一緒にいませんでした。役人たちが探し回って、修道院の庭の十字架の前で祈るゴンサロを見つけ、棒で強く殴って捕縛しました。ゴンサロは長崎への道を歩き、最後まで日本語で説教していたといいます。

長崎・西坂の丘

西坂の丘


道中でペトロ助四郎伊勢のフランシスコも捕縛され、26名となった一行は、長崎の西坂にあった処刑場へと連行され、1597年2月5日(慶長元年12月19日)、槍につかれて処刑されました。これは国の最高権力者の命令で行われた日本で初めてのキリシタン処刑でした。

列福と列聖


1627年、教皇ウルバノ8世はこの26名を福者とすることとし、1862年には教皇ピオ9世がこの殉教者たちを聖人に列しました。現在長崎の西坂殉教地には二十六聖人記念碑と二十六聖人記念館が建てられ、隣に聖フィリポ教会が建てられています。

ゴンサロ・ガルシアはインドのボンベイ司教区の保護聖人として崇められています。





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