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本多庸一 (ほんだ・よういつ)

                                 1849-1912年

横浜バンドの一人


明治期を代表するのキリスト者にして教育者。 横浜バンドを構成した一人。

1849年津軽藩士の子として生まれ、藩校で漢学と兵法を学んだ後、藩命によって横浜で宣教師バラから英学を学び、その感化により1872年に受洗。郷里の青森県弘前に帰って弘前公会を創立。

自由民権運動に携わり、青森県会議員に当選。同議長を務めた後は教育と伝道に専念しました。アメリカ留学後は青山学院院長などを歴任し、日本メソジスト教会初代監督となりました。「尊皇愛国」の志をもってキリスト教を日本に根付かすべく尽力しました。



青森での郷里伝道


本多庸一は1849年、弘前藩士の本多八郎左衛門久元・トモの長男として生まれ、1865年藩校稽古館で漢書や儒学を学び、1868戊辰戦争にも従軍。1870年に漢訳聖書の創世記を一部読んで、同年、藩命で英学を修めるために横浜に出、横浜修文館でS.Rブラウンに英語を学び、1871 J.H.バラの塾に入学しました。

本多庸一は植村正久、押川方義と共にバラに要請して祈祷会を始め、それがきっかけで日本初のプロテスタント教会日本基督公会が設立されました。一旦郷里に戻されましたが、1872年再び自費で横浜に遊学して、バラより受洗。明治プロテスタントの3大潮流の一つ、横浜バンドを形成しました。

伝道師として神奈川県や房総地方で活動後、1874年に帰郷し、稽古館の後身の東奥義塾を再興し塾頭となり、J.イングらと共に東北地方伝道を目指しました。1875年には弘前公会を創立し、その傍ら自由民権運動にも参加しました。 1882年青森県議会議員に当選し、議長として活躍。

1884年メソジストに転じ按手礼を受け長老となりました。1886年からは議員を辞し、仙台教会(仙台五橋教会)牧師として赴任。1887年、東京英和学校(現・青山学院)校主 兼 教授および青山美以教会牧師に就任しました。1888年に渡米し、ドルー神学校に学んで帰国。東京英和学校校主(校長)に就任し、1894年青山学院と改称し第2代青山学院院長になりました。

以後、17年間学校経営にあたり、日清戦争に際しては戦地に渡って戦争に協力。また日露戦争で内村鑑三柏木義円らが反戦論を唱えたのに対し、1904年「征露論」を著して、主戦論を主張しました。1907年日本メソヂスト教会設立に伴い、青山学院院長を退き、初代監督に就任。日本独自の宣教組織を確立しました。

メソジスト教会西部年会のため長崎市に滞在中、両肺気管支カタル、脳出血等の病気で客死。享年62歳。青山学院の弘道館にて追悼会が行われました。座右の銘は「敬天愛人」。1965年、日本メソジスト教会最後の監督で本多の甥の阿部義宗が本多の業績を記念して、東京都渋谷区代官山に「日本基督教団 本多記念教会」を設立しました。




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