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植村環

                                 1890-1982年


日本で2番目の女性牧師


日本で2番目の女性牧師で、婦人運動家。

日本YWCA会長を務め、戦後再建された日本キリスト教会の指導者として働きました。
植村正久牧師の三女で、山内量平牧師は母の兄にあたります。



植村正久の娘


植村環は1890年、植村正久の三女として、東京で生まれましたた。母は季野。母の兄は、日本福音ルーテル教会における日本人最初の牧師 山内量平でした。1905(明治38)年、15歳の時に富士見町教会で父の正久牧師から受洗。

女子学院専門部を卒業した翌年、医師を志して渡米しましたが、途中で哲学に志を転じて、1915(大正4)年、ウェルズリー大学を卒業して帰国しました。帰国後は津田英学塾、女子学院で教師を務めました。

1917(大正6)年、28歳のとき川戸州三(33歳)と結婚。翌年5月に長女 俟子(まちこ)が誕生しました。しかし6月に夫が35歳で死去し、11月に長男 晴彦が誕生したものの、小児麻痺になり、翌年10月に死去。

1920(大正9)年の妹 恵子の客死と、1925(大正14)年の父 正久の死をきっかけに、伝道師になることを決意。母に幼い娘を託して、1925年9月に英国に渡りスコットランドのエディンバラのニューカレッジおよびエディンバラ大学神学部で学び、1929年12月に帰国しました。母 季野は環の帰国を待っていたかのように、翌年の6月、食道癌で死去しました。


牧師として活躍


帰国後の環は、東京女子大学、日本神学校、東京聖経女学院の講師を務める傍ら、伝道を開始。1930年4月に日本基督教会東京中会で教師試補の准允を受け、柏木教会を設立。1934(昭和9)年に日本基督教会東京中会で、富田満の動議により、日本で2番目の女性牧師となりました。1937年(昭和12)年10月柏木教会建設式並びに牧師就職式が行われました。

1937(昭和12)年から1938(昭和13)年まで、台湾総督府が行ったキリスト教主義学校弾圧に抵抗運動を起こし、台南長老教女学校(現・長栄女子高級学校)の校長を務めました。1937(昭和12)年に日本YWCA会長に就任して、今日のYWCAの土台を形成し、1938年から1951年までは世界YWCAの副会長を責務を果たしました。

第二次世界大戦が終結すると、昭和天皇と香淳皇后からトルーマン大統領へのメッセージを託され、1946年(昭和21)年、民間人としては戦後初めて渡米してトルーマン大統領に会いました。帰国後は皇后に聖書を講義するために毎週皇居に通いました。


戦後は平和活動に尽力


1950(昭和25)年11月、平塚らいてうらとともにアメリカのCIAのアレン・ウェルシュ・ダレス長官に全面講和を要請。1955(昭和30)年、下中弥三郎、前田多門、茅誠司、湯川秀樹、平塚らいてう、上代たのと共に世界平和アピール七人委員会を結成。知識人による平和問題に関する意見表明のためのこの委員会は、現在まで続いています。

戦時中の教会合同で、柏木教会などが属する日本基督教会も日本基督教団に合同していましたが、1951(昭和26)年5月、小野村林蔵ら植村正久の薫陶を受けた牧師たちの主導の下に、42の教会が日本基督教団を離脱して、日本基督教会(現・日本キリスト教会)を設立。

日本基督教会の指導的教職として活躍しましたが、1973(昭和48)年、体力の衰えを理由に牧師職を引退。1982年5月26日、93歳で死去しました。

著書に説教集『来たれ往け』『朝の光土より』、自伝『私の歩んだ道』などがあり、日本YWCAの機関誌『女子青年界』等に寄稿された記事と共に『植村環著作集』全3巻にまとめられています。




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