本文へスキップ

キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

トップページ > 私家版いじん伝 > 来日した宣教師 > アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

                                 1539-1606年


キリシタン時代の名プロデューサー


イタリア生まれのイエズス会宣教師。=Alessandro Valignano

現地にあった方法で宣教をするという「適応主義」を採り、日本宣教を飛躍的に推し進めました。ローマに天正遣欧使節を送ることを立案、実行し、ヨーロッパに日本ブームを巻き起こしました。



「適応主義」で宣教を推進


アレッサンドロ・ヴァリニャーノは1539年、イタリアはナポリ王国のキエーティで貴族の家に生まれました。長じてパドヴァ大学で法学を学び、1566年にイエズス会に入会。1570年に司祭叙階され、1571年からは修練院で教授をしました。1573年、東インド管区の巡察師に任命され、リスボンを出発。

ゴアを経てマラッカ、マカオを回り、中国での宣教のためにミケーレ・ルッジェーリが派遣されて来ると、後を彼に任せて1579年7月日本へ出発しました。巡察師としての彼の役目は各地の布教地でのイエズス会の活動を視察し問題があれば会の規約を正すなどすることで、それを解決する大きな権限を持っていました。

1579年7月、ヴァリニャーノは長崎の口ノ津に上陸。すぐに信長を訪問して接見しました。ヴァリニャーノは布教地の民をヨーロッパ式に転換させるのではなく、その地の文化と風習に適応して宣教するという「適応主義」を採って成果を上げ、またこれは日本人から歓迎されました。


セミナリヨと天正遣欧使節


1580年、肥前有馬と近江安土にセミナリヨ(小神学校)を設立し、1581年に豊後府内にコレジヨ(大神学校)、1580年には豊後臼杵にノヴィシャド(修練院)を創設し、日本人指導者の育成に力を入れました。1581年夏、織田信長と安土城で最後に謁見し、この時贈られた安土城の屏風は教皇グレゴリウス13世に献上されました(現在は所在不明)。

1582年、天正遣欧使節を計画しイエズス会員に伴われた4人の少年たち(伊東マンショ、原マルティノ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン)はヨーロッパへ出発。ヴァリニャーノは途中のゴアまで付き添いました。使節団は各地で大歓迎を受け教皇謁見の際にも温かくもてなされました。

1590年、ヴァリニャーノは帰路ゴアに立ち寄った遣欧使節と合流し再び来日。1591年彼らと一緒に聚楽第で秀吉に謁見した際には、西洋の楽器を演奏し秀吉を喜ばせました。また初めて活版印刷機を持ち込み、「キリシタン版」とよばれる書物を印刷しました。1603年日本を去り、3年後にマカオで死去しました。聖ポール天主堂にはヴァリニャーノの墓が残されています。





インフォメーション
《本サイト内の関連ページ》



                                   来日した宣教師一覧へ >>