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フランシスコ・カブラル

                                 1529-1609年


ヴァリニャーノによって解任


来日したイエズス会司祭。=Francisco Cabral

コスメ・デ・トルレスの後継として日本布教の責任者となりましたが、日本人を全く尊重しない態度であったため、巡察使ヴァリニャーノによって解任されました。



トルレス神父の後継として


フランシスコ・カブラルはスペイン貴族の子としてアゾレス諸島のサンミゲル島に生まれました。コインブラで学び、インドで軍人として働いていたときにイエズス会と出会い、1554年に入会。すでに高等教育を受けていたので1558年に司祭に叙階されました。インド各地で要職を歴任した後、すでに高齢となって病に伏していたコスメ・デ・トルレスの後継者として日本に派遣されました。

日本到着後、ただちに日本布教区責任者となったカブラルは、志岐で宣教会議を行い、今後の宣教方針を決定しましたが、ザビエルから受け継いできた「適応主義」を否定し、また日本人を蔑視したため信徒たちとの間に溝が生じました。

一方で権力者への働きかけは順調に進み、カブラルは畿内に赴きオルガンティーノとロレンソ了斎の出迎えを受け、足利義昭との会見に成功。さらにルイス・フロイスを伴って向かった岐阜では織田信長の知己を得て、その庇護を受けられるようになりました。また大友宗麟に洗礼を授けたのもカブラルです。


「適応主義」とヴァリニャーノ


1579年イエズス会総長の名代として日本を訪れた巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、カブラルから日本人が布教に適していないという悲観的な報告を受けて衝撃を受けましたが、実際に視察に赴いてみると多くの優れたキリシタンがいることが分かり、問題点はカブラルにあるのではないかと考えるようになりました。

ヴァリニャーノは「適応主義」の復活を指示し、宣教師が日本の礼儀作法を学ぶよう言いましたが、カブラルはこれを不服として非難したため、ヴァリニャーノによって解任されました。カブラルの後任にはガスパル・コエリョが任命されました。

1583年に日本を離れてマカオに去ったカブラルは、後にインドのゴアに移り、同地でインド管区長を務め、1609年ゴアで死去しました。





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